3月7日(月)商品の物神性が貨幣生成の「なぜ」を明らかにしている、とはどういうことなのでしょうか。(続続)
今日はハートセンターで6カ月おいての検査と診察があり、10日に予定されている未来研究会の論議予定の本『デフレの正体』は2・3頁しか読めませんでした。
そこで引き続いて、私的具体的な特殊労働が一般的人間労働の総労働と分業の環となって現れることと、それが、つまり価値が使用価値によって現されるために、なにか事物が転倒して人間の意識に反映してしまい、またこの転倒はいわば現象を実に忠実に表現しているかのように見えるためにとてもわかりやすい、というか容易に理解できるものです。それにまどわされることは科的でも弁証法的でもないということは当然であるとしても、物神性論の史的唯物論的認識においての位置は明快だと思います。
史的唯物論は、拝金主義や利潤第一主義をふりまく資本に厳しい歴史的批判的認識を、その認識の階級性として本来的に持っています。
無知がもたらす錯誤ということは、誤謬の根源として古代から現代に貫通しています。けれども、社会と歴史についての唯物論的認識は、経済学批判においての、資本主義的生産様式のもとでの、ペーリーとリカードゥとの、俗流経済学の労働価値説否定は交換価値をすなわち交換という行為によって価値が生成されるかのような錯誤を表現し、古典派経済学は交換価値として現れる価値形態をとらええることができずに、人間的一般的労働がどのようにこうした形態をとり、なぜそれが一般的等価形態として貨幣形態に転化するか、というプロセスを理解できなかったことから、その資本主義理解の限界を露呈します。丸楠はキリスト教と4つの経済的社会構成体のもとにおける物神性の検討を展開し、古典派経済学への批判をおこなっています。
素晴らしい内容です。
本日はこんなところで。