2月13日(月)真理と誤謬について、その重層的な絡み合いのありようについて『失われた時を求めて』をじりじりと読み進めつつ思いを巡らしています。
本日は、名古屋市公聴に要請書を届けるため、まず中センターに中央線千種駅までその跡地か鉄にて新栄へ行き,交通費は340円、そして地下鉄・名古屋城(ついこのあいだまで市役所だったところが、駅名が変更)200円、そして地下鉄鶴まで230円、さらに地下鉄平安通まで270円、その後旗高橋氏の車で移動したため、交通費小計は1,040円です。
食費は、朝が緑茶300㏄40円と粒あんパン88円、昼がホッケ開き定食が960円、夜が豚生姜焼き、切り干し大根、たこぶつ、トーフ味噌汁、卵焼きで900円、食費小計は1,988円、そのほか大学堂にて古書3冊1,000円で、本日の支出総額は4.028円です。
明日で最賃生活体験の折り返しというか、半分が経過することになりますが、集計はどんなものでしょうか。
『失われた時を求めて』は125頁、『後妻業』が82頁、般若心経の解説本が161頁まで読みました。このように遅々としてなかなか読み終えないのに、次から次へと本を買ってしまうのです。読まなければならない本、必ずいつかは読んでやろうと思っている本、そういうものに囲まれてニヤニヤしながら生きているのは不気味な者でしょうか。あれも勉強したい、これも知っていきたいと、智への欲求はとどまることがありませんし、生涯学習し続け、実生活では実践をつづけることが楽しいのです。
誤謬との闘争により真理を探究してゆくとしても、誤謬と捉えていたことの中に真理の光を見つけてしまうとか、明らかな誤りを退けながらも誤りの虜となる人間があり、その人間の認識においてなぜ自分が誤謬と認識している者が心理として把握されているのか、などのことが『失われた時を求めて』を読んでいると想起されます。
シャーンタラクシタやカマラシーラよりも、チャンドラキールティのほうが優れた論理と認識である、と現在の自分は優劣を付けているけれども、それをさらに検証していきたいと思います。
本日もまたこんなところで。