2月27日(火)最賃生活体験運動27日目、楽祭でもらった悪霊退散のシールを貼るのは、やっぱりドストエフスキーの『悪霊』の表紙がいいかな?

朝は水200㏄で0円。昼は、揚げとトーフの味噌汁に鶏五目ご飯、漬物、ハムエッグで680円。夕食は、本マグロ赤身・かつお・ブリの刺身三種とトーフの味噌汁に鶏五目ご飯、漬物、レモンサワーで1300円。交通費は590円。

桐生さんの本を読了したおかげもあり、楽祭で悪霊退散のシールをもらったこともあって、なんだかドストエフスキーの『悪霊』を3回目、読みたくなってしまいました。これまでに2回読んでいますが、二度とも米川正夫さんの訳文でした。

1回目は高校2年の時、2回目はその3年後だったと記憶しています。ずいぶん昔のことで、それからずっと読まずに忘れるにまかせてきました。いまや、まずまずほとんど忘れ去っています。大昔に読んだ本でも、もう一度読み返したいと思うものも確かにあります。ほとんどは、もういいやと思っていますけれど。

村上春樹さんの『街と不確かな壁』は、『騎士団長殺し』が2017年2月末から読み始めたことの、別様の続きのようなものでもありますが、それは単なる自分の内面世界においての連続性だけのことで、特段、小説世界においては(“影”が現実世界に戻ろうと飛び込む深い淵、そこからつがっている長いトンネル状のあの世とこの世をつないでいる通路のイメージのほかは)つながりはないように思います。

ただ、考えるのはその村上さんの死生観においての生の中に死があり、死の中に生がある、という認識でしょう。

主人公はどうもわかってはいなさそうなそのことについて、現実世界の自分を“影”だと理解している少女も、“街”の図書館で夢読みとしてすごす“少女”の本体である(と考えられる)少女も、子易さんも、イエローマリンのパーカーを着た少年もすべてどうもわかっているらしいことについて、主人公も知らないし理解していないし認識にないことであり、さらに主人公と同じように、読んでいる自分にも理解できていないことでありながら、世間の人々はおそらくみんな何らかの共通認識を持っていることなのかな、と思えてきます。

いつかこの世からいなくなっていくことへ向かって生きている自分に、純文学長編が教えてくれているものが何であるか、と考えながら。

また明日。