2月8日(木)最賃生活体験運動8日目、最賃生活自体は、何の面白みもなくただ単調に出費を記録しているだけですが、それ以外の人生の一コマが面白い。 

朝は水300㏄で0円(なぜ、0円かというと、少し前からペットボトルのピュアな水「南アルプスの天然水」を飲むのをやめて、水道水にしているから)。昼は、上にぎり寿司に、もう少しプラスして2000円。夜は、東新町交差点からすぐの地下1階のあんかけスパゲティの店で1200円。赤いウインナーと種木・マッシュルームとピーマンのソースがたっぷりとまぶされた2人前くらいの赤いウインナーのざく切りとタマネギ・マッシュルームとピーマンのはいったソースがたっぷりとまぶされた2人前くらいの大量のスパです。ウーロン茶もテーブルごとにピッチャーに入って飲み放題で600㏄くらい飲みました。

純文学長編の余韻は、主人公が17歳の時、少女は16歳で、二人は恋人でしたが、少女は私はあの“街”に本体が住んでいて、自分はその影だと話し、二人は“街”について詳しく話し込み、そのうち少女は姿を消してしまいます。どんな事情や理由があったのかは、まったくひとことも知らされず何もわからず、記憶の彼方に去って行くというわけでしょう。しかし、主人公はそうした事態と自分の身に起こったことに深く傷つきながら、その“街”に少女の本体(というべきか、影の元の身体)が図書館にいることを信じ、思いを深め、ついにその町に入るのです。影を引き剥がされ、また夢読みになるために目を傷つけられながらも。

この小説を読んでいるとき、そしてこのように(チベット牛のように)反芻しているときに虚構の中の主人公と気持ちを一つにして生きているというふうに意識をコントロールすると、まことに人生は重層的で、世界は二重構造のような姿で現れ、そこで生きることは実に棕櫚の木の上のさらに上の虚空に上っているように感じられます。

そうした余韻が純文学の快楽ですね。

また明日。