2月27日(土)家計簿調査運動、あと1日。じりじりと仕事を進め、着々と追い上げて、一刻一刻を大切にする

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ミャンマー国連大使が国軍クーデターを批判する演説をおこないました

写真の場所、栄スカイル前に行き、ビラを少し配り、「憲法と平和を守る愛知の会です」と声を上げました。交通費は、240円×2の480円です。

朝は、バナナ1/2とピュアな水を200㏄、昼は海老フライとオムライスと麦のジュースで1,280円、そして丸明のA5等級の飛騨牛の特売があるというので買いに行き3,490円、こちらの金額が夕食ということで、すき焼きとご飯をたらふくいただきました。食費の小計は、4,770円。消費支出計は5,250円です。

 

あと1日になってみると、自分がこの1カ月、何ほどのこともなしていないとも思えるようになっています。なので、そんなことではつまらないから、家計簿記録はやめても、最低でもあと2・3カ月日記を続けてみようかな、と思っているところです。

それはさておき、今日からハーヴェイの『新自由主義』第5章を読み、レポートづくりを始めています。第5章は「中国的特色のある」新自由主義です。読んでいると、評注を書きたくなりますが、いまのところ「中国共産党の幹部の子弟らはマサチューセッツ工科大学に留学しシリコンバレーで働き、東京大田区の町工場をリタイヤした退職技術者らが大量に中国に招かれて技術指導をおこなって技術者養成をしたことや、清華大学のサーバーにはきわめて大量のソフトウェアがおかれており、学生たちは自由に使うことができた、という話があった」ということを思い出して書いたのと、毛沢東の逝去の前後に、林彪がクーデターに失敗してモンゴルに飛行機で逃亡途中に墜落して死んだこととか、そういえば華国鋒という後継者がいたけど、どういう経過で失脚したのだったかな、と思い出して調べてみました。そうすると、ウィキペディアにきちんと載っていたので、レジュメに書いておきました。その部分は、こんなふうです。

 「あなたに任せれば安心だ」(毛沢東)・華国鋒の鄧小平による失脚。
 1978年12月に行われた第11期3中全会で、中国共産党のトップとしての実権を鄧小平に奪われ、1980年9月に首相を、そして翌1981年には党主席を辞任した。当初序列6位の副主席に降格していたが、1982年に党主席ポストが廃止された際にそれも退任した。四人組ほど急進的でなかったものの、「文革色」の残る政治家であった華国鋒は、鄧小平らと権力闘争を展開し、最終的に追い落とされて失脚させられたといわれる。
 その後も、2002年11月に引退するまで中国共産党中央委員を務めた(結果的には鄧小平ら八大元老よりも遅くまで中央委員を務めることとなった)。外国メディアとの接触は断ち、中国国内でその動静を伝えられることは極めて稀であったが、ある程度の政治的活動は認められていたと考えられている。これは、鄧小平らとの権力闘争に敗れることを予測してからは泥沼の争いをせずに身を引いたことが中国の混乱を防止したとして、鄧らから一定の評価を受けたためとされる。
 2004年2月、中国共産党に離党届を提出したと一部メディアが報道したが、2007年10月、「中共元老」として第17回党大会に招待され参加していることから、実権を失ってからも一定の待遇を受けていたと考えられる。
 2008年8月20日午後0時50分ごろ(中国標準時)、病気のために北京市内の病院で没した。87歳没。

 

中国共産党は、スターリンのような同志殺しはおこらなかったのだな、とも思いました。それでも、天安門事件以降の趙紫陽のような死ぬまで軟禁ということもあり、なかなかにプロレタリアート独裁の歴史的経験は、大変ですね。そして、『新自由主義』を読んでいると、生産手段の国有も集団化も、中国においては、中国の特色を持った民営化によってすべて市場経済のもとに解体されていくということでは、ソ連型も中国型も生産手段の社会化としては成功しなかったし、社会主義の生産様式として成功するスタイルはどのようなものとして計画的に創出できるのかということが新しい探究において必要な課題となるに違いないと思います。

 

今日は、『落英』(㊦)は少し読んで86頁、『死の家の記録』は274頁で止まったままです。仕事はじりじりと進め、栄養はA5等級のしっかりとした味の牛肉をたっぷりと摂取したので疲れはほどほどです。しかし、これぐらいにしておいてあげますから、ごきげんよろしゅう。おやすみなさい。