3月25日(金)プーチンが千島列島で軍事演習を始めたが、北海道にでも侵攻するつもりですか?やめてもらいたいです。
なんとなくネトウヨまがいの表題をつけそうになってしまいました。あぁ、おちぶれたくない、と少し思いとどまりましたが、こんな表題にしてしまいました。
あすは大木ゼミがありまして、以下のレポートを提出します。
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初めて参加させていただいた大木ゼミにおいては、今回、7回にわたって、『資本論』第1巻第1篇第1章「商品」を学んできました。(私は、高校3年の時に、岩波文庫の向坂逸郎訳のものをはじめて読み、長谷部文雄訳や岡崎二朗訳など、50年にわたって、3回は全巻を読みました。『経済学批判要綱』や『剰余価値学説史』も読んできました。けれども、最初に読んだときからずっと、何度読んでもなかなか根本のところが、どうもさっぱりわかりません。『共産党宣言』も同じようにさっぱりわからない本です。これは、独学で、我流で読んでいるからかも知れないと思ってもいます。)
大木先生や大木ゼミに参加されている皆さんの資本論から考えてみる、という議論を聞き、意見や質問をうなづきながら聞きつつ、ゼミの時間中、様々に考えをめぐらせてきました。本を読むという行為は、まずはコツコツと一人で読むので、できる限りわからないところでつまずくのではなく、ざっと通して最後まで読んでしまってわからないことは後から調べるという方法をとるのがいいかもしれません。
労働者にとって、どうでもいいかもしれないことと、きちんと理解しておかなければならないことがありますから、ある意味、経済学の学問的なアカデミックな部分と労働運動と階級闘争において必要な内容を、余計なこだわり方をせずにとらえていくことも大切かとも思います。
資本主義的生産様式の運動法則をつかむことは、資本主義の没落期である現代に、資本主義を倒すことの必然性とそのための知的な力を、変革主体である労働者階級のものとしていく事だと思います。
実践のために理論を学ぶのであり、そのことから離れての学習はありません。
前回、第7回では『資本論』第1巻第1篇第4節「商品の物神的性格とその秘密」を勉強しました。
この第4節が第1章の「商品」の締めくくりなのです。『経済学批判要綱』での貨幣論の端緒的研究とそこからの価値形態論への思考・論理の上行的展開ということは、どのようにして労働生産物は生産者と交換者との間で商品となり、したがって、交換者の使用価値であるとともに交換価値となり、そのような価値形態を持つこととなるのかを、単純な相対的価値形態と等価形態の分析により摘出しています。等価形態の謎の諸特徴が貨幣形態の謎と貨幣の謎へとつながっていくのであり、そこにこそ、商品の物神的性格とその秘密がある、ということを認識し、それを理解しようとするときに、なにが何によって覆い隠されているのか、ということでは、人と人との関係が物と物との関係として現れることによる、人間の認識の転倒、そしてこれが発展すれば、上部構造領域においてのさまざまな転倒が起こっていくのだ、ということを知らなければなりません。
『資本論』第1章は、第1節こそ古典派経済学が発見した労働価値説を踏襲しているのであるとして、それ以降、この第4節まで、その価値形態論と物神性論のすべては、マルクスの新発見にほかならないのです。
そして、この第4節が第1章の「商品」の締めくくり、ということは、物による人の支配から資本による労働者階級と人間の支配に至る「秘密」を明らかにしている、ということを意味している、と思います。これは、のちの機械と大工業のマルクスによる分析によって如実に描き出されます。
商品の物神性ということは、ある意味では、支配階級の思想的影響としてはとてもわかりやすい拝金主義とかを労働者の一部に植え込み、金儲けがすべてであり金持ちになることが人生の目的であるといった考え方をしている労働者があとを絶たないといったことも生み出しているのではないか、と思います。『資本論』という芸術的とも言いうる資本の運動法則の全面的解明の叙述の完成に力を注いだマルクスのつくった本の第1章の締めくくり部分で、資本主義的生産様式が支配的な社会の富の要素形態(細胞形態とも、源基形態とも訳されてきた)としの商品の分析から導き出されている、人間の意識・認識の転倒についてのとらえ方は、実に貨幣生成の「なぜ」を交換価値から等価形態の特徴に摘示するとともに、価値の価格への転換が、実際に交換過程で起こるために、そしてここにおいて欲望を持った商品所有者がはじめて現れて一商品が他の商品と物々交換的に交換されることとしてよりも、価格となって貨幣と交換されることで物神性が完全に現れ出て、それが特段に機械と大工業のもとで高度に、上部構造領域の転倒となっていったとき、資本による社会の支配が政治的にもイデオロギー的にも支配的となり、現代世界においての意識と認識論上の大きな人類的錯誤さえ生み出すというモンスターのような内容にまで進展していくものとなっていると思います。
商品論は端緒としての商品分析により、こうしたことを、労働力の商品化の前にすでに示し得ているということに、マルクスの分析の奥深さとともに真理性を表現していることを教えています。
私的具体的な特殊労働が一般的人間労働の総労働と分業の環となって現れることと、それが、つまり価値が使用価値によって現されるために、なにか事物が転倒して人間の意識に反映してしまい、またこの転倒はいわば現象を実に忠実に表現しているかのように見えるためにとてもわかりやすい、というか容易に理解できる世俗的なもののようです。それにまどわされることは科学的でも弁証法的でもないということは当然であるとしても、物神性論の史的唯物論的認識においての位置はすぐれて明快だと思います。
史的唯物論は、拝金主義や利潤第一主義をふりまく資本に厳しい歴史的批判的認識を、その認識の階級性として本来的に持っています。
無知がもたらす錯誤ということは、誤謬の根源として古代から現代に貫通しています。けれども、社会と歴史についての唯物論的認識は、経済学批判においての、資本主義的生産様式のもとでの、ペーリーとリカードゥとの、俗流経済学の労働価値説否定は交換価値をすなわち交換という行為によって価値が生成されるかのような錯誤を表現し、古典派経済学は交換価値として現れる価値形態をとらええることができずに、人間的一般的労働がどのようにこうした形態をとり、なぜそれが一般的等価形態として貨幣形態に転化するか、というプロセスを理解できなかったことから、その資本主義理解の限界を露呈します。マルクスはキリスト教と4つの経済的社会構成体のもとにおける物神性の検討を展開し、古典派経済学への批判をおこなっています。
それは、労働者階級にとって、本当に素晴らしい現実解明とその武器を与えています。
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本日はこんなところで。