2月23日(金)最賃生活体験運動23日目、今日は修了レポートを書いて転載するので、うんざりするほど長いです。

朝は緑茶300㏄とみず200㏄で0円。昼は、サーモン、マイタケ、ピーマン、ポテトのホイル焼き、味噌汁とご飯など800円、夕食はトーフ鍋、ブロッコリ、漬物、ご飯とイチゴで800円。交通費他はなしです。

一日、パソコンの前で『資本論』講座の修了レポート書きに終始し、疲れました。

小説もまったく読まず、眠る前に少し読むでしょう。純文学長編の余韻は、影はあんなに恐ろしい水の穴に、以下に脱出のためとはいえ、よく身を投じたもんだ、そうしないと死ぬからだろうけど、ということでおしまい。以下、今日書いた文書の転載。

 『資本論』により現代資本主義批判の真髄をつかみ、実践上のたたかいに活かす意義

1.大木ゼミではSeason9で、第十二章「分業とマニュファクチュア」から、第十三章「機械と大工業」まで、全行読みを継続しておこなってきました。
 マルクスが生き活動した時代と比較すると、現代資本主義の危機はおよそ想像を絶する規模と速度でなお進行しています。
 それは、今では私たちの生存条件を構成している地球の自然環境が資本主義的生産様式によって著しく深刻に破壊されているレベルが、国連事務総長の認識においても「地球沸騰時代」と評価されているのであり、ペストやスペイン風邪以来に人類を襲った新型コロナウイルスの人類への感染拡大というパンデミックとその社会的影響、世界の東西・南北、発達した資本主義の国々とアジア・アフリカ・ラテンアメリカのすべての国民に現れている差別と分断、極めて大規模にまさに揺らぎと崩壊をもたらす自然災害の多発、地政学的なリスクの深刻な増大となり、こうした状況こそ「資本主義の全般的な危機」と呼ばなければならないような様相を露呈しています。
 その土台に、つねに潜在的な恐慌と、いつその有限な生命を失うかわからない、経済の心臓部での産業循環の不整脈的痙攣、各国政府による(あるいはG7などのような先進諸国の協調的介入のような)経済財政政策の攪乱、その最大の経済外的介入となって現れている戦争、こうした戦争という形で、政治・外交・軍事の世界的破綻や破滅を表現している経済危機の真相を、私たちは『資本論』の全行読みからつかみ、とらえいくことが大木ゼミによる得がたいものとして姿をあらわしてくる、と考えることができるのではないでしょうか?
 そして、この内容は、賃金論や蓄積論へとシームレスに繋がっているものと思います。

2.こうした「時代」に『資本論』から、現代資本主義批判を摂取し、学ぶことにより自己の思考を変革の実践に活かすため整理するとともに、マルクスの考えつづけていた未来社会を自らの思索にもとづいて再構成し、できるかぎり豊かにしていくことは、社会主義についての人類の移行のイメージを、したがって資本主義的生産様式のもとでの社会経済構成体のより発展した次元を画する次期社会経済構成体についての、空想から科学への社会主義の発展とその変革を創出する人々、前衛党と統一戦線、大衆運動、それらを形成する人間のあり方についての知の力を生み出し前進させる糸口となる可能性を持っているのではないでしょうか?

3.産業革命が始まると、それまでの手工業での(親方と徒弟)職人が業種ごとの不均等発展のもとで次々に仕事を奪われ、ラダイト=機械打ち壊し運動運動という形態での抵抗闘争に立ち上がりました。手工業職人たちの失業の根本的原因は機械の資本主義的充用にあるのであって、機械そのものにあるのではないことを彼らが正しく認識し始めるまでには数年の時間がかかった、といわれています。
 チャーチスト運動普通選挙法や救貧法などの議会改革、政治的な権利獲得のための闘争が中心でしたが戦闘的な労働運動でもありました。
 その当時の労働者の生活は、エンゲルスの「イギリスにおける労働者階級の状態」にも描かれているとおり、今の私たちが想像する以上に、とても悲惨なものでした。
イギリスは1850年代には七つの海を支配し、インドを植民地として、12世紀以来のアイルランドの犠牲と収奪とアメリカへの大量移民のうえにイギリス資本主義経済の発展は構築されていきます。植民地収奪により、特別超過利潤の取得を得たイギリスは、全体として大きく繁栄し、労働者階級の一部上層もそのおこぼれに預かり、生活水準も相対的に良くなっいく土台ができていきます。そのような状況の推移のもとにチャーチスト運動も次第に鎮静化していきました。
 マルクスは、今Season9で私たちが学んだ、第4篇「相対的剰余価値の生産」において、産業革命による機械制大工業が進展するにつれて下部構造が封建的生産様式から、資本主義的生産様式への巨大な転換がおこっていくことを、そのリアルなダイナミズムとともに詳しく説明しています。ただ、異常なほどのこの生産力発展のダイナミズムが、極めて巨大な破壊力を自然界と地球の生態系や経済システムそのものに及ぼすことになります。
 さて、分業とマニュファクチュアの後に、機械制大工業が現れるやいなや、ただちに機械の「社会的摩滅」=改良あるいは新鋭機械の採用による従来の機械が陳腐化をこうむるため、できるだけ早く機械の生命力を使い尽くすことが最大の節約であるから、働く人々への労働時間の延長、交替制、深夜業を実施すると同時に、労働の単純化による児童労働・女性労働の包摂、資本のもとへの労働の形式的包摂(従属)から実質的包摂へのプロセス、そして資本の専制支配が完成していきます。
しかし、この同じプロセスのもとで生産力の発展、生産の社会化、工場制度、工場法による「未来教育の萌芽」「封建的中世的、家族制度の打破」「”全面的に発達した人間”を生み出すための予備条件の形成」等々、新たな総体労働者としての自己自身と社会を支配する自由な生産者の集団とまったく新しい社会のあり方へ向かっての変革主体の形成と、こうした人間の発展に対する資本からの諸種の妨害が絡まり合って進む“階級闘争”が一貫して継続します。
 『資本論』の「協業」から「機械と大工業」までに記述されている、このようなイギリスの資本主義発展・経済史の示していることとこの歴史に対するマルクスによる分析から、私たちは、さらに深く、資本による賃労働の形式的包摂から、実質的包摂についての理解・認識を得ていくことが、私たちの労働運動と階級闘争にとって、未来社会にむけて大切なことである、ということを教えられていると思います。

4.私は2020年9月15日に開催された未来研究会(北法律事務所の長谷川弁護士さんたちとおこなっていた研究会)でのレジュメ(白井聡著『武器としての「資本論」』の第3講から第5講のレポートとして)に、以下の『大月経済学辞典』からの引用をしました。白井聡氏は、次のように書き、資本による賃労働の実質的包摂について、ネグリと同等にとらえています。
 「マルクスは、労働過程の資本への統合のタイプとして形式的包摂と実質的包摂の区別を立てた。ネグリはこの包摂の段階的深化を、生産の場面だけでなく、社会の、そして生の全体に資本の支配が及ぶに至る過程にまで広げて捉えた」 ⇒ 「A. ネグリにおける価値と労働 *ver.1」⇐ この論文は、現在、ネットのpdfファイルではみつかりません。

資本のもとへの労働の形式的包摂・実質的包摂

〔独〕formelle und reelle Subsumtion der Arbeit unter das Kapital
Ⅰ 定義
 労働日のたんなる延長による絶対的剰余価値の生産においては、資本は直接には生産様式を変化させることなく、現存の技術的条件のもとで労働をたんに形式的に包摂するにすぎないが労働時間の延長は労働者階級の反抗を呼びおこし標準労働日が資本にとっての制限となり、また生産過程が労働者の熟練に規定されているかぎりでは、資本による労働の包摂は不完全である。必要労働時間の短縮(労働生産力の増大)にもとづく相対的剰余価値の生産すなわち生産様式の変革によって資本ははじめて労働を実質的に包摂する。資本主義社会は生産様式のたえまない変革をとおして発展するという特徴をもつが、資本が搾取材料たる労働者を自己に包摂させてゆく過卸も生産様式の変革をとおして完成される。独立の農民や手工業者は手の労働と頭の労働をともに担っていたのであるが、資本主義的生産様式の発展は、生産過程の精神的諸機能を労働者から切り離して、他人の所有として、彼らを支配する権力として対立させる。この分離過程は個々の労働者にたいし資本家が社会的労働の統一性と意志とを代表する単純協業に始まり労働者を分割された特定の作業しかできない部分労働者化してしまうマニュファクチュアにおいて発展する。労働者の個人的生産力が貧しくなることを条件として資本の生産力が豊かとなってゆくのである。

 Ⅱ 実質的包摂の発展
 協業の発展は指揮・監督機能を必然とするがそれは資本の専制支配として行なわれるが賃労働者相互の運動の連絡と統一とは彼らの外部にある資本家の権威として彼らに対立する。協業は資本主義的生産の基本形態であるが労働過程のなかでは労働者は生産資本の1部分であるにすぎず結合労働者の生産力は資本の生産力となる。単純協業では労働者は技術的には独立の手工業者であったが分業にもとづく協業であるマニュファクチュアでは労働者はひとつの生産機構の器官となり技術的な独立性を失う。部分労働は商品を生産せず部分労働者たちの共同生産物がはじめて商品となる。単純協業は個々の労働者の労働様式をほとんど変化させないがマニュフクチュアはそれを根本的に変革し労働者をゆがめてひとつの奇形物にしてしまう。個人そのものが分割されてひとつの部分労働の自動装置に転化されマニュファクチュア労働者はもはやただ資本家の作業場の付属物として生産的活動力を発揮するだけとなる。マニュファクチュアはいまだ手工業的熟練を基礎としての不熟練労働者の数は熟練労働者の優勢によりまだ非常に制限されていたことから、資本はたえず労働者の不従順とたたかわねばならなかった。機械制大工場においてはじめて社会的生産の規制的原理としての手工業的活動が廃棄され資本による労働の包摂が完了する。マニュファクチュアでは生産様式の変革は労働力を出発点とするが、大工業では労働手段を出発点にする。マニュファクチュアでは労働者を基準に生産過程が分割され、労働者が道具を自分に奉仕させたが、機械制大工業では労働者が機械に奉仕する。そこでは生産過程は自然科学の応用により客観的にいろいろな構成段階に分割されているのである。こうして大工業では労働者の細部の熟練などは資本の権力を形成している機械体系の前ではとるにたりない小事として消えてしまうう。大工業の最高形態である自動機械体系においては、労働は機械装置それ自体の総過程のあいだに分離されて包摂され、それ自体たんに体系の1手足であるにすぎず、この体系の統一は生きた労働者のうちではなく、死んだ労働である機械装置のうちに実存する。

 Ⅲ 実質的包摂の完了
 こうして生産過程の精神的諸能力を個々の労働者から分離させ資本の権力として対立させる過程、資本のもとへの労働の実質的包摂が完了する。部分労働者たちの諸労働の連絡は資本家の計画として資本家の権威として彼らの行為を自己の目的に従属させる他人の意志の力として彼らに対応する。労働者は徹底的に部分労働者化され全体性を資本が掌握しアウトマート(自動装置)がアウトクラート(専制君主)として君臨する。
 以上のごとく単純協業→マニュファクチュア→大工業という資本主義的生産様式の発展は生産過程の精神的な力能・全体性が個々の労働者からとりあげられ、それが労働に対立する資本の権力へ転化する過程でもある。労働者の労働からその内容をうばうこと、個々の労働者の生産力を貧しくすることによって資本のもとへの労働の実質的包摂が完成される。だが大工業の発展がもたらす社会的分業の不断の変革は労働力の不断の流動化・機能の転換をもたらし、それはいろいろな社会的機能をかわるがわる担いうるような全体的に発達した人間を必要とするようになる。また資本家の監督機能はその増大とともに資本の名によって指揮する労働者に譲り渡される。こうして資本のもとへの労働の包摂を完了させる大工業は同時に資本主義止揚のための主体的条件を不可避的につくりだす。
〔文献〕マルクス資本論第1巻第4篇。/同直接的生産過程の諸結果、岡崎次郎訳、国民文庫。/飯盛信男、生産的労働の理論、青木書店1977。/芝田進午人間性と人格の理論、青木書店1961。(飯盛信男)

5.私は、愛労連による名古屋市内の地域労連の一本化を進める第4回会議に名中地域センターとして出席せざるを得なかったために、第6回大木ゼミに出ることができませんでしたし、その内容もレジュメ以外には動画を見ることもできておりませんので、修了レポートに第6回での報告やさまざまな意見交換等を反映させることができなくて大変残念です。本日の後にでも、前回の具体的内容を動画で見せていただきたいと思っていますが、『資本論』第一巻の「協業」「分業とマニュファクチュア」「機械と大工業」はマルクスによる歴史的記述においての、史的唯物論階級闘争の展開の文章化の実例とも言うべき内容で、ここの部分をどのように読み理解するか、どのように議論するべきか、ということがとても大事かな、と常々思っています。
 これは、私の考えでは、社会と人間の組織のあり方やその技術、そして労働組織に法則的に貫かれている資本主義のもとでの、社会と人間の発達のプロセスを最終的に機械と大工業という生産手段が(物質的な)媒介物として直接的生産者を支配の網の目に絡め取りがんじがらめにしている事実を描き示している、と思います。この資本主義的生産様式のもとでの賃金奴隷制度としての本質が、この章の後に続いています。したがって、労働者階級をこの資本のくびきから解放する、という『資本論』が目的としている著述目標と直結している、ということなのではないでしょうか?

6.マルクスは、『ドイツイデオロギー』を書いた頃はまだ分業のアウフヘーベン止揚・廃棄)という解放への構想を抱いていましたが、マルクスエンゲルスの革命論の探求は生涯、実践的に続けられてきました。それは実践的であるが故に、実在する生きてたたかっている資本家階級と支配勢力との単純ではないたたかいであり、また理論的闘争であったことは言うまでもありません。
 マルクスは、ドイツ語第2版の後に出されたフランス語版では、このSeasonで学んだ箇所にかなり大きな改訂をおこなっており、新メガの編集者もその点を注目したそうです。階級闘争がもっとも徹底してたたかわれたというフランスの労働者階級の読者に、最新の改訂を届けることに熱心に専心したのでしょう。
 マルクスは、1867年9月にドイツのハンブルグで『資本論』第一巻を刊行しましたが、第一インターナショナルでの奮闘も、1868年にブリュッセル大会、1869年バーゼル大会、1871年ロンドン協議会、1872年にハーグ大会と実践的に革命運動と世界の労働者階級の闘争への指導援助の活動も展開しています。フランス語版は、1872年から75年にかけて刊行されました。
 大木ゼミは、当初メンバーから3人ほどが参加できなくなっていて、2人ほどが増えました。最初期からのメンバーに加え増えていくならばいいのですが、せっかく一緒に学んでいくのに、少なくとも『資本論』の第一巻の最後までは仲間の皆さんたちとともに歩んでいけたら、と思っています。私は、いのちが尽きるまで、学びたたかっていきたい、と願っています。

7.先に紹介した未来研究会は、後藤さんにも途中から参加してもらいましたが、2023年6月7日に第36回を、「『フォイエルバッハテーゼ』私註」のレポートを最後に幕を閉じました。
 『フォイエルバッハテーゼ』第十一テーゼは、よく知られているように、次の内容です。
 「哲学者たちは、世界をさまざまに解釈しただけである。肝要なのは、世界を変えることである。」

また明日。
 
                                                                          以 上