3月8日(金)仮名漢字変換がうまくいかないことが続くとストレスがたまって怒りっぽくなってしまいますね。

今日は三の丸周辺の栄総行動オルグで、16475歩、歩いたので、大変有酸素運動をおこなわせていただき、ありがたいことです。おかげさまで、明日は休日とさせていただき、今日まったく読めなかった本を読もうと思います。だけど、今夜、寝る前に読む本は『神と黒蟹県』と決まっており、現段階では住宅建材メーカーで営業の仕事をしてきたという作者の経歴・経験をなぞったような文章がつづいており、この作者の小説やエッセイをことごとく読んできた人間としては新味もなく、面白くもなんともありません。本来再読していこうとしている『悪霊』についても、はじめのところは『虐げられた人々』とよく似た、ロシア上流社会とか知識人ごとき人々についての叙述はたいくつです。昔、回読んだときの印象と、ずいぶん違っていて、再読する場合に、昔はあまりつかめなかったところが良く理解できたりするのとは違い、なんとなく再読する価値があるかどうかといった銀すら浮かびます。それは、翻訳のあり方と関係するかどうか、まだなんとも言えません。しかし、亀山先生が書いているように、確かに翻訳については、リズムというものがあることは間違いないと思います。米川正夫さんの訳は、恐ろしく顔が長いという描写が印象に残るだけでなく、やはりとてもいいリズムがあるんじゃないか、と思います。

こうした文体、というものが人の思想や表現の力をあらわしていることは間違いないのだろうと思います。例えば根大江健三郎さんの初期作品の、読めばみずみずしい気分にしてくれる文体、ヘミングウェイの短く切れの良い、スパッと現実の場面を表現しきる文体、など小説もそうです。カール・マルクスの『資本論』の論理と歴史的事実の摘示の、そして例えば価値形態論でのような、なぜ、いかにして、どのようにという展開のあり方と文章・批判の力を強く適確に鋭く実感させるくれる、そのような文章はすばらしいな、と思います。

村上さんの小説も、『騎士団長殺し』もよかったし、『街とその不確かな壁』もよかった、と深く感じています。主人公と16歳で関わり、突然連絡の絶たれた謎の少女の本体は“街”の図書館で働きリンゴのお菓子を作ってくれる少女なのか、根源的な疑問を抱きつつ、また明日。